昭和40年01月12日 朝の御理解
咲いた花は必ず散る。花が咲けば必ず実がみのるかというと、そうではない。花が咲いても実らないあだ花もある。花は散った。けれどもそれが次には実りになると。私は信心を思うんですけれども、信心をすれば誰しもおかげが受けられる。けれども、お徳を受けるということは、それを心がける人でなからなければ、お徳は受けられないと思う。お徳が受けたい。そしてそのお徳を受けるために、どういう信心をさせて頂いたらお徳が受けられるかというところに焦点を置く人。
またそれを行じていく人でなからなければ、お徳は受けられない。まあ、信心の功罪と。まあ、信心も、必ずしも信心しておれば良いことだけというじゃない。信心をしておっても、やはり良いこともありゃ、信心しておるために悪い場合もある。信心させて頂いてから身上(しんしょう)を失うという人すらあるんだものね。こりゃまあいうなら、よく、酒の功罪に似たものだと思う。
だからお酒というのが、ただ飲めば誰しも酔うのだけれども、ね、その酔うた後なんだ、問題は。それが明日の活動の元、エネルギーともなるようなお酒でなからなきゃならん。酔うたために酔狂が出る。ために身上をうちふってしまうといったような、私は酒であってはならない。いわゆる酒は飲むものであって、飲まれないようにと〔いう事〕。信心も同じだと。どうでもひとつ、お互いせっかく信心を、教祖の神様は、信心をすれば誰でもお徳が受けられる、と仰っておられるのでございますから。
その信心をしとればお徳が受けられるというのではない。お徳を受けられるためのおかげを頂かなきゃあならない。例えば、信心しておかげを受けると。成程、おかげを受けるんですけれども、お徳はひとつも残ってないといったような場合なんかは、功罪ということにすれば、やはり罪の方になるだろうとこう思う。この世では分からないでも、あの世で分かる。桂先生が神様から頂いておられますように、「桂松平、なんじは身に徳を受けて、そして願ってくる氏子におかげをどんどん授けておけと。
この世で払えん時には、あの世までも、神が取りに行ってやる」とこう仰ったという事です。おかげだけは、なかなか器用に頂いた。ところがそれを徳にしないでおくと、それは、いわば借金のような事になる。あの世までも取りに来られなければならんという事になるのです。ね。ですから本当に、信心をさせてもらい、信心の道を教えてもらい、お徳を頂けれる信心を身につけたい。
そこで、どういうような信心をさせて頂いたら、お徳が受けられるかと。信心をさせて頂いて私は、真に有難いと思う。それはどのような事の中からでも、真に有難いと分からせて頂けれる、有難しという答えを出していく事だとこう思う。それはどのような事の中にでもである。そこに私は研究がいるのであり、精進がいるのであると思うのですね。いわゆる工夫がいるのです。
いうなら自分の和賀心。いわゆる和らぎ賀ぶ心に現れてくるようなおかげを頂き続けること。これがその、おかげが花なら、必ずその花が、よし散っても実りになるだろうと私は思う。また、身に徳を受ければ心配はないとも仰る。心配のない毎日が頂けれるようなお徳を受けたい。信心させて頂いておってもね、その有難くなるという事に、ひとっつも焦点を置かない人がある。
せっかく毎日お参りさせて頂いて、せっかく御理解を頂いて、ね、おかげを頂いておるけれども、その有難くなるためにという事に焦点を置かない人がある。ね。有難くなりたいという一念を持っておっても、有難くなれんならです、それをもう一段これはまだ自分の信心が足りんから、という気持ちになって、私は、その有難しを追求していかないけんと思う。ね。惜しい。せっかく信心をさせて頂いておって、どうして有難くなれないか、というところに焦点を置くいわゆる信心。
長年、信心させて頂いて、おかげは頂くのであるけれども、これがお徳であろうというようなものに触れることのない信心〔では〕つまらん。もし私共はおかげを受けて、有難くなるという事の追求も、いうならばまたは抑制もしないとするならです、花は咲いても実はみのらないものと、先ず、知らなきゃならん。長年信心をしておれば、その事によって、お徳を受けるといったようなものではないという事。ひとことひとことがです、私は有難しという追求のものでなからなければならんと。
せっかく信心をさせて頂いておるのに、ただおかげさえ頂けば良いという信心、信者が、または信奉者がです、多いのに驚く。それだとです、信心させて頂いておっても、それは信心の功徳ということにならん。ね。私は信心の功罪というなら、それは信心をしておるためにです、かえって神様に借金を負うていくようなものではなかろうかと。ここんところをひとつ本気で、ひとつ、それと分からせてもらってですね、お徳を受けるための信心を一つずつ積み上げていかにゃいけん。
どういう信心をさせて頂いたら、真にお徳が受けられるか、有難くなれるかと。そこへ焦点を置く人。ね。おかげさえ頂けば良いというて、そのおかげだけに焦点を置く人。たったそれだけの事なんだけれども、そこんところへねえ、目には見えないもんですからねえ、徳というのは。そこに焦点を置く人がごく少ない。それではやはり、神様が、どうぞ氏子信心しておかげを受けてくれよ、と仰るような、私はおかげにはなってこないと思う。今朝、私、ご神前に出ましたら、みんなはその花が咲くけれども。
それを実りにする氏子がごくごく少ない、もう、ごくごく少ないというような事を頂くんです。何百何千の人がたとえば参ってまいりましてもです、ね、ハハァ成程、四神様が、春か秋の御大祭の時だったでしょう。ある先生が、「金光様、たいしたことでございます、と。これだけたくさんの人が、御霊地、御本部というてお参りしてくる。たいしたことでございます」と言うて、ご挨拶を申し上げた時に、「そうなあ、これだけに、真の信者が何人おろうか」と仰ったち。
私は真の信者とはね、お徳を受けることに楽しみをもって信心をさせて頂く氏子のことじゃなかろうかと思う。御本部参拝もしよるばってん、おかげを頂くために御本部参拝しておるちゅうのじゃったら、私はつまらないね。ただ日頃頂いておるおかげのお礼だけのつもりで、参りよるというような信心じゃあつまらん。お徳を頂かせて有難しという一念が、御本部参拝であり日々の参拝の【 】にならなければ、ねえ。
そういう意味あいにおいてです、私は、椛目では何かお徳を受けさせて頂く、お徳を受けさせてくださる、教導というか、そういう道をです、神様がいつも教えて下さっておるように思うのです。ね。成程、おかげの欲しい者には、おかげを渡して下さるけれども、だから、お徳が欲しいという氏子の上には、必ず、お徳をやりたいと神様は願っておられるのであるから、その事に神様が直接、教導して下さるように思うのです。
まあいうなら椛目では、お徳が受けやすいというような気がするのですけれどもね。どんなに皆さん、お考えになっておるか分からんけれどもです、ね。どうぞ、そのごく稀な、少ない方の信者に、いわゆる真の信者にならして頂くということを願いとしなければならんと私は思うんですね。おかげを頂かなくてはなりません。